花見はいつから始まった?その起源や由来は何?春の日本の伝統文化

陽気に春の気配が漂ってくると、ニュースで桜の開花予想が発表されます。
やはり、日本の春を象徴する花といえば桜ですよね。

そして満開の桜の下で、お弁当を広げたり、談笑したり・・・。
花見は日本人の伝統文化になっていますよね。

ところでその花見、いつ頃から始まったものなのでしょうか?

今回の記事では、花見の起源や由来について見ていきたいと思います。

<スポンサーリンク>


花見の始まりは貴族の梅見から


桜の花見は日本の風物詩

花見の起源は、奈良時代(710~794年)に遡ると言われています。
当時は遣唐使による中国との交易が盛んで、梅の木が日本にもたらされました。

貴族たちは、その梅の花を見て、歌を詠んだりして楽しんだのです。
つまり、この時代の花見とは、桜の花でなく梅の花を観賞するものでした。

それが平安時代(794~1185年)に入ると、梅が桜へと替わっていきました。
その移り替わりの様子は、貴族たちが詠んだ歌によっても伺い知れます。

奈良時代に成立した「万葉集」では、桜を読んだ歌よりも梅を詠んだ歌の方が多いのです。
桜を詠んだ歌が約40首なのに対し、梅を詠んだ歌は約120首にのぼります。

奈良時代の花見と言えば、まだまだ梅が中心であった事が推察できますね。

しかし、平安時代に成立した「古今和歌集」になると、桜が梅を逆転しているのです。
桜を詠んだ歌が約70首あるのに対し、梅を詠んだ歌は約20首にとどまっています。

奈良時代とは違い、花見の主役が梅から桜へと移り替わった事がわかりますね。

この背景には、平安時代になって遣唐使が廃止された影響があったとされています。

遣唐使の廃止により、日本独自の文化に改めて注目が集まったのでしょう。
中国由来の梅よりも、古来から日本に咲く桜が、主役の座に躍り出たわけです。

812年には、嵯峨天皇が初めて宮中行事としての桜の花見を催しました。
嵯峨天皇は非常に桜好きで、毎年のように桜を献上させていたようです。

831年になると、花見は宮中において天皇主催の定例行事となりました。
その様子は、平安時代中期に成立した「源氏物語」にも書かれています。

天皇による花見が催される中で、貴族の間にも桜の花見が急速に広がっていきました。
この時代の貴族たちは、こぞって庭に桜の木を植えていたようです。

武士階級に広がり、宴会スタイルに


鎌倉時代(1185~1333年)入ると、貴族だけの風習だった花見が武士階級にも広がります。
そして、全国各地で武将たちにより、花見の宴が催されるようになりました。

また、この頃から花見の内容にも変化が起こったと考えられています。

それまでの花見は、桜の下で優雅に歌を詠んだり、蹴鞠をしたりというものでした。
それが徐々に、桜の下で酒を飲んで宴会をするというスタイルに変化したのです。

いわゆる「どんちゃん騒ぎ型の花見」が誕生した時代といえるでしょう。

ちなみに、武将が催した花見としては、豊臣秀吉が開催した「吉野の花見(1594年)」「醍醐の花見(1598年)」が有名です。

「吉野の花見」は、まさに秀吉が天下人としての繁栄を謳歌していた時期に開かれました。
この花見には、当時の有力大名である、徳川家康前田利家伊達政宗なども呼ばれています。

秀吉は、実に5000人もの武将を従え、5日間にわたって大々的に花見の宴を催したそうです。

また、「醍醐の花見」は、秀吉が他界する5カ月前に京都の醍醐寺で開催されました。
「醍醐の花見」には1300人が召喚され、やはり盛大な規模で行われたようです。

この時、秀吉の死期を感じ取った醍醐寺の座主は、英雄の最期にふさわしい、豪華絢爛な宴を用意したと言われています。

<スポンサーリンク>


花見が庶民のものになった江戸時代


一般庶民が花見を楽しむようになったのは、江戸時代(1603~1868年)になってからと言われています。
徳川幕府や各地の武将たちが花見を奨励したこともあり、花見は庶民の間でも急速に広まっていったようです。

徳川幕府の中でも8代将軍 徳川吉宗は、庶民が桜を楽しめる場所をいくつも作りました。
中でも、隅田川堤や飛鳥山には大規模な植樹を行い、庶民が気軽に桜と触れ合える機会を提供したのです。

隅田川堤や飛鳥山は、現在でも桜の名所として、多くの花見客で賑わう人気スポットになっています。
東京における桜の名所の基礎は、吉宗によって作られたと言っても過言ではないでしょう。

吉宗は、庶民が文化や芸術に触れる政策を、積極的に推進した将軍だといわれています。
庶民の間に花見を広めていったのも、そんな吉宗の姿勢の表れだったといえるでしょう。

ソメイヨシノも江戸時代に


江戸時代には、桜の品種改良も盛んに行われました。

そこで生み出された桜の1つが、ソメイヨシノ(染井吉野)です。

ソメイヨシノは江戸時代の末期、染井村(現在の東京都豊島区駒込)の植木屋で誕生したと言われています。
オオシマザクラ(大島桜)エドヒガンザクラ(江戸彼岸桜)を交配させ、観賞用として作り出されたものだったそうです。

しかし、ソメイヨシノは当初、ヨシノザクラ(吉野桜)という名前で売り出されました。
それは、染井村の植木職人が、桜の名所として名高い奈良県の吉野山にあやかろうとしたためです。

現代風に言えば、「吉野ブランド」を、少しばかり利用したと言えなくもないですね。

とはいえ、花が大き目で香りも良いオオシマザクラと、花が散るまで葉が出ないエドヒガンザクラ
この2種類の特徴を上手く受け継いだヨシノザクラ(ソメイヨシノ)は、大人気の品種になるのです。

ただ、本家の吉野山に自生している桜はヤマザクラ(山桜)であり、ヨシノザクラとは異なります。
「やはり、ヨシノザクラという名前では紛らわしい」と考えられた結果、明治33年に改めてソメイヨシノと命名されました。

なお、ソメイヨシノを命名したのは、博物学者の藤野寄命(ふじの よりなが)という人です。
そのソメイヨシノは、本州から北海道南部まで広く分布し、全国の桜の約8割を占めるに至っています。

ちなみに、桜餅に使われる桜の葉はソメイヨシノではありません。
桜餅に使われる葉は、ソメイヨシノのルーツになったオオシマザクラの葉になります。

関連記事:桜餅の由来とは?桜の葉は食べる?実は2種類あるんです

<スポンサーリンク>


花見は豊作祈願の神事だった!?


貴族たちの風習から始まったとされる花見ですが、農民文化に由来するという説もあるのです。

古くから農村では、春の農作業に先立ち、山野に出かけて桜の花見をする風習がありました。
この農民たちの花見には、その年の豊作を祈願するという意味があったとされています。

というのも、桜は「田の神様」が宿る神聖な木と考えられていたからです。

「サクラ」の語源として、「サ」は田の神様、そして「クラ」は神様の座る場所を意味するという説があります。
つまり「サクラ」は、田の神様が春に山から降りてきた時に、いったん留まる依代(よりしろ)とされていたのです。

そして、桜の花が咲く事は、「田の神様が山から降りてきたことの証」と考えられました。

農耕で生きる農民たちにとって、その年に農作物がどれだけ収穫できるかは、まさに死活問題です。
そのため農民たちは豊作を願い、桜にお迎えした田の神様を、持参した弁当や酒でもてなしたと言われています。

また、気象に敏感な桜の花は、農業の開始時期を示す目安として最適なものでした。
そこで、桜の花を稲の花に見立てて、その年の作柄を占ったりもしていたようですね。

この農民文化としての花見と、貴族文化としての花見がミックスされた結果、今の娯楽としての花見が誕生したと考えられています。

今回の記事では、花見の起源や由来などについて見てきました。


今日も最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

スポンサーリンク
スポンサーリンク




スポンサーリンク




シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする

スポンサーリンク
スポンサーリンク