「太陰暦」と「太陽暦」という2つの暦を聞いたことがありますでしょうか?
なんとなくではありますが、昔に旧暦として使われていたのが太陰暦
そして、現在の新暦として使われているのが太陽暦なのかなと思えます。
ですが、太陰暦と太陽暦の本当のところはどうなのでしょうか。
今回の記事では太陰暦と太陽暦の違いや由来などについて見ていきたいと思います。
太陰暦と太陽暦は何が基準か

はるか昔、人間が狩りで動物を追い回していた時代には暦というものは存在しませんでした。
何故かと言えば、狩りをしたり植物の実をとったりするだけなら今が一年のいつかなんて関係なかったからです。
しかしながら文明が発展し、作物を耕作するようになると、今日の暦を知る必要が出てきます。
何故なら、種まきや収穫の時期を知る必要があるからです。
そこで何かを基準にして暦を決めることにしました。
この時に基準となったのが
太陰暦⇒月
太陽暦⇒太陽
というわけです。
月の形を基準にした太陰暦
太陰暦の太陰とは「月」を意味します。
太陰暦はその名の通り、月の満ち欠けを基準にして日付を決めます。
太陰暦では新月の日をその月の1日として、2日、3日と暦が進んでいきます。
しかしながら、月が新月から次の新月になるのは29日と12時間44分03秒です。
そのため29日か30日で1月が終わってしまいます。
これを計算すると、太陰暦の12カ月は354日か355日で終わってしまうことになります。
これは地球の公転周期である365日と5時間48分46秒よりも10日か11日短くなります。
これでは3年経つと、太陰暦の暦は季節よりも1カ月ほど早くなる計算です。
こんな暦では非常に都合が悪いことはすぐにわかりますよね。
このままの暦を使い続けていたら、12月が毎日真夏日になったり、8月に大雪が降ったりといったことが起こります。
これでは暦の役目を果たしているとはいえません。
太陰太陽暦
そこで、太陰暦にある工夫をこらして、暦が季節に合うようにしたものが登場します。
その暦を太陰太陽暦といいます。
この太陰太陽暦は太陰暦がベースなのですが、2年か3年ごとに12カ月ではなく13カ月となる年があるのです。
つまり、2年か3年に1度、閏月(余分の月)を付け加えることで、暦と季節の整合性をとるようにしたわけなんですね。
一般的に太陰暦というと、こちらの太陰太陽暦のことを示します。
日本や中国の旧暦には、この太陰太陽暦が用いられています。
なお閏月を設けない太陰暦のことを、純太陰暦と言います。
こちらの純太陰暦は、アラビアなどで使われています。
太陽が基準の太陽暦
太陽暦は、地球の公転を基準につくられた暦です。
地球が太陽の周りを1周するのにかかる時間を1年として、1カ月の日数を割り出しています。
地球は太陽を365~366日かけて1周します。
だから1年は365(366)日となるのです。
すると1カ月の日数は、365を12で割って30~31日になるというわけです。
もう少し細かく見ていきます。
地球の公転周期は、正確には365日と5時間48分46秒です。
そのため1年を365日とすると、1年に5時間48分46秒だけ日付が季節より進みます。
1日は24時間ですから、だいたい4年で1日進むという計算になります。
この日付の進みを調整するために設けられたのが、皆さんもご存知の閏年ですよね。
普段は28日しかない2月に、4年に1度、29日目を付け加えているわけです。
ちなみに私には、2月29日生まれの知人がいるのですが、
閏年以外の年は、3月1日が誕生日の扱いになるとのことです。
日本に太陽暦が導入された経緯
明治時代の初頭まで、日本では太陰太陽暦が用いられていました。
なぜなら太陰太陽暦には、これといった欠点が無かったからです。
ですが明治5年の11月、明治政府が突然に太陰太陽暦(旧暦)を太陽暦(新暦)に改めると発表します。
しかも、改めるタイミングがまた急すぎるもので、「明治5年は12月2日で終わり、旧暦の12月3日を新暦の明治6年1月1日にする」というものだったんです。
つまり明治5年の12月は、2日で終わってしまうという驚愕の内容でした。
これで一般の人々は大混乱に陥ります。
何しろ、たった1カ月前にそんな重大なことを発表されたのだから、たまったものじゃありません。
当然、年末年始の行事や催しものの準備が間に合わなくなりますよね。
しかしながら、一番困ったのは、今でいうカレンダー業者だったと言われています。
発表があったのは11月ですから、既に旧暦で明治6年のカレンダーを刷り上げた後です。
返品された明治6年のカレンダーの山を抱えて、呆然とする業者の姿が思い浮かぶようですね。
それでも太陽暦に切り替えた理由
市民生活に大混乱を起こしつつも、太陰太陽暦から太陽暦の切り替えは実行されました。
その理由は「日本も先進国となるために、諸外国との国交を盛んにしなければならない、そこで海外で主流となっている太陽暦を採用するものとする」とされています。
しかしながら、これは表向きの事情です。
本当の理由は、苦しい明治政府の財政事情にあったと言われています。
太陽暦が導入されずに、太陰太陽暦のままだった場合、明治6年は閏月があり、13カ月になるはずでした。
これが役人の給料を払う明治政府には、頭が痛かったわけです。
実は明治4年9月に、それまで年俸制だった役人の給料が月給制へと変わりました。
すると閏月のある年は、1カ月分多く給料を支払わなくてはならないというわけです。
そこで明治政府は、明治5年12月3日を明治6年1月1日にすることで、明治5年の12月分の支払いを踏み倒し、さらに明治6年の支払いを12回に抑えてしまおうと考えたわけです。
これが日本において、太陰太陽暦から太陽暦への変更が、あまりにも唐突に行われた裏事情と言われています。
財政的に厳しかった明治政府としては、背に腹は代えられなかったというわけなのでしょうね。
今回の記事では、太陰暦と太陽暦の違いや由来について触れてみました。
今日も最後まで読んでいただき、ありがとうございました。